和食ダイニング『廩』寺本辰也料理長インタビュー 〜ド素人からオーストラリア代表、そして三茶へ〜
はしもとです!
今回「三茶おかわり地獄〜究極の野菜メシ〜」にて、
参加者にしぬほどお米をおかわりさせるおばんざいを作ると、
鼻息を荒くしている『廩』の寺本料理長に料理人としてのキャリアを、
インタビューをしてまいりました。
寺本料理長のとんでもない成り上がりにびっくりしました、、、。
・料理人を目指すきっかけ
・オーストラリア代表としての実績
・会社を手段として、日本の料理人の地位をあげたい
という流れで、寺本料理長のその実績と料理業界への想いをご覧くださいませ!
●向いていなかった俳優。そして料理人の道へ
そもそも料理を始めるきっかけになったのは、
俳優を目指して上京してきたことでした。
僕は島根出身で、兄がメンズ雑誌のサブスタイリストとして雑誌に出ました。
地元では兄貴すごい!となっていて。
次男だと兄貴に勝ちたいという気持ちがあるじゃないですか。
昔は母も舞台女優だったし、
僕は俳優になって兄貴に勝ちたいと思って上京しました。
ある日、深夜ラーメン屋でバイトしていたら、
日本三大俳優養成所の一つの「青年座」の知り合いの人がきて、
オーディションを紹介してくれて受けたんですが・・・落ちました。
尋常じゃないアガりで、セリフもカミカミで、、、。
やっぱりそんなにあまい道ではないですよね(涙)。
向いてなかったんですね、俳優(笑)。
それでもあきらめずエキストラのバイトをやっていた。
ある時、撮影で代官山の『タブローズ』というお店にいきました。
昔から料理が好きだったということもあり、
「ここかっこいい!働きたい!」と思ったんですね。
ちょうど白金台に同じ店をだすタイミングで、働き始めました。
『白金台ステラート』それが料理としてのキャリアのスタートでした。
●料理で続けれなかったら死のうと腹くくった。そして劇的展開へ
そのお店は、外資の証券会社関係など外国人のお客さんばかりでした。
料理は好きでしたが未経験だったので本当の下積みでした。
その時ぼくは、
「今まで何やっても継続できなかったから、
大好きな料理が続けれなかったらこの世を去ろう。」
と腹をくくって、
テレビのお仕事もやめて24時間料理に没頭しました。
帰ってからもずーっと料理の本を読んでいました。
そんなことを3年もしたら腕が上がってきたんですね。
そしたらもてはやされて、勘違いをしてしまったんです、、、
「東京にはもう敵がいない」と(笑)。
ちょうど、その時期に視察がてらNYのトップレストランをまわりました。
その時「ここはなんて刺激的な街なんだ、この街で働こう!」と決め、
ビザをとるために和食の店で働こうと、
西麻布の『権八』で4年間修行しました。
しかし、4年経っていざNYへ行こうとしたとき、
テロでいけなくなってしまったんです。
そんな中、今度はオーストラリア旅行に行った時に、
これまた「オーストラリアにも素晴らしいレストランが沢山あるんだ!」
とショックを受けました。
オーストラリア食文化にちょっと偏見があったんですね(笑)。
そして、その時に行ったお店の『TETSUYA’S』で働きたいと、
ワーホリビザを取得して『TETSUYA’S』に面接を受けに行ったのですが、
「就労ビザないやつは帰れ」と言われてしまいました。
後から調べてみたらそこは、世界トップ5に君臨するお店だったんです。
世界中から料理人なんて集まるから帰れと。
残念ながらそのお店は一時諦めて、
高級レストランの『Yoshii』に皿洗いで入りました。
そのお店も日本にいた時から知ってるくらい有名店でした。
そんな有名店にもかかわらず、オーナーに認められ、
なんと半年で料理長に抜擢されました。
僕がやる前の料理長だった人が、
京都の有名店『菊の井』でバリバリやっていた人で、
それはそれはすごい料理を出していたんです。
僕は、「英語もわからないし、ビザとるために働いていたようなやつが、
料理長なんて無理なんじゃないか」と悩んでいたのですが、
僕のどんどんアイデアを出すところを評価してもらったみたいで
オーナーに「サポートするから!」と言っていただき、
料理長をスタートすることにしました。
●オーストラリア代表として、日本ではできない経験の数々。インドネシアの超お金持ちのおばちゃん、レッドブルの空港レストラン「ハンガーセブン」、、、
(シドニー・オペラハウスにて)
料理長になり数カ月が経つと今度は、
30歳以下のオーストラリアの料理を担うだろう人が選ばれる、
「シドニーベストヤングシェフ」の5人に選ばれました。
いや、、、僕もわけわかんなかったです。
いきなり外国人のおじさんに、
「君選ばれたから」とか言われて、、、(笑)。
光栄なことにアジア人で初めてだったみたいです。
それからは、イベントでタイやシンガポールなど、
海外に料理を作りにいくことが増えました。
一番すごかったのが、
超大金持ちのインドネシアおばあちゃんの誕生日の為に、
世界中からミシュラン星付レストランを含めた5店舗に選ばれて、
料理を作りに行きました。
ホテルのスイートルームの貸切で、
飛行機はビジネスクラスでした。
「お金はいくら使っても良い、
食材は世界中から取り寄せてなんでも使っていい。
でも、何かあった時はわかるよね、、、?」と言われた時は、
みんなドン引きしましたよ(笑)。
結局その一晩で約2億円つかっていました。
50人のお客様を呼んで、中国雑技団がきて、
そのために建物もつくって、、、。
あと、100年物のコップ一杯8万円する高級ウーロン茶や
100年物の高級シャンパン、フランスの高級ワインがでてきましたよ。
ウーロン茶に関しては、ほぼ漢方薬の味がして、
「うわまずっ!」と思わず言ってしまったら怒られました(笑)。
他に印象深いのは、オーストリアのザルツブルグにある、
レッドブルの空港の真ん中にある、
『ハンガーセブン』で料理をつくったことです。
お客さんが自家用ジェットでくるんですよ。
毎月世界中のシェフの料理が食べられるというコンセプトのレストランで。
そこに僕らもオーストラリア代表として呼ばれて作りに行っていました。
、、、とまあ、
このように日本では体験できないようなことをやらせていただきました。
いろいろ評価をして頂いてオーストラリアの永住権とれ、
その後は有名な高級レストランで働きました。
しかし、星をひとつ落としただけなのに、
一瞬で経営が悪くなっていくお店も目の辺りにして、その時僕が実感したのは、
「どれだけいいものを作っても、
ちょっとしたことで経営ができなくなるもろい経営基盤はダメだな」と。
そこで、僕が次に働いてみたいなと思ったのは、流行っている店。
つまりは、お客様もたくさんいて、雇用をちゃんとしていて、
お金もちゃんと生んで、、、という戦略的な体制がちゃんとしているお店。
日本でも世界一の朝食で有名になった『Bills』で働き始めました。
(『Bills』surry hills店の仲間たちと)
その頃、ちょうど子供を授かりました。
オーストラリアって物価がめちゃめちゃ高いんです。
幼稚園1日1万円かかるんですよ!
高いから週2回しか預けられない人とかザラなんです。
残念ながら僕は低所得者扱いで、国からも援助を受けて生活をしていました。
バスとかも半額だったんですよ。結構それがすごいショックで、、、。
「どんだけ稼がなくちゃいけないんだこの国は」と。
まずは一度日本に帰ってみて、
「本当に自分たちにとって幸せな場所はどこだろう?」
と夫婦で話し合った結果日本に帰国しました。
そして、日本に帰ると、
以前お世話になった西麻布の『権八』の料理長が
三軒茶屋の『廩』を経営していて、
手伝ってくれないかと言われました。
やることもないしな、、、と、
とりあえず『廩』で料理長として働くことになって今に至ります。
●会社を手段として日本の料理人の地位をあげたい
将来は、店舗をつくりたいのはもちろんですが、
それよりも「会社」をつくりたいです。
店つくる、という気持ちだと、
どうしてもその一店舗しかやっていけないし、
自分がつくってお客さんを喜ばせるのではなくて、
チームをつくり、自分が経験したことを伝えて多店舗展開していきたい。
最終的には、「日本での料理人の地位を上げたい」んです。
海外では、日本と違い料理人の地位が高い。
それなりの修行をちゃんとするんです。
向こうで、レストランで働くということは、
例えば日本でいう「銀行に就職するぜ!」という感覚です。
オーストラリアにおいては労働環境がちゃんとしています。
週休2日で、1日8時間はしっかり守ります。
なぜかというと、めちゃめちゃ時給いいんです。
土日出勤、残業になるともっと時給は高くなります。
最低時給が約2000円なので、ちゃんと時間を区切らないと、
経営者が火をふきますし、労働者も時間に敏感です。
また、料理の指導の仕方についても全然違います。
僕は日本で料理人として修行し始めたとき、
今でいう料理人独特のパワハラを目の当たりにして、
「ああ、なんでこんなに寂しい世界なんだろう。
それだけ技術があって素晴らしい人なのに、なぜ!」と思いました。
下っ端という身分で何度も先輩におかしいと言ったのですが、
そこはやっぱり腕の世界なので。
しかし、いざ日本を出てみると、
やっぱり世界のスターシェフという人は、
人としても素晴らしく、本当に夢を与えるような仕事をしていて。
(三ツ星シェフ・シェフサンティサンタマリア氏と)
その時、「このやり方でも料理界はやっていけるんだ!」
と確信しました。
世界中にどこに行ってもそういう環境だったら、
無理だと思ったかもしれないですね。
自分が「会社」をつくって影響力をもって発信することで、
料理業界の低収入で劣悪な労働環境を良くし、
現在の料理の技術だけを向上させるような教育を、
面白いイベントができて、地域に貢献できて、、、
というような経営全体ができる人を育てるようシフトしていけば、
少しは料理人の地位が上がるんじゃないか、と信じています。
●「廩」は農家さんが集まるお店に、、、
そういえば、「廩」を始めて少ししたら
一時期、やたら農家さんが集まるお店になっていました(笑)。
きっかけとして、ある日、やたら詳しく食材のこと聞いてくる
2名のお客様がいらっしゃいました。
そこで、酒粕のアイスクリームをお出ししたら、
とても感動していただいたんです。
聞いてみると自分でもお米を作っている方で、
山梨の「農業生産法人hototo」の生徒さんだったんです。
その後、hototoの生徒さんや卒業生みんなでイベントをしました。
農業に関して、心には疑問に思っていることでなかなか言えないことを、
みんなで言って、どう改善すべきかを語るイベントでした。
それがとても好評でその場にいた農家さんが、
違う農家さんを連れてきてくれるようになりました。
初めていらしていただいた農家さんは、
「いつも有名どころのお店に行ってるよ〜」なんていいながらも、
僕がちょっと変わった野菜をスモークしたり、野菜のデザート出したりすると、
「なんだこれは、、、!」とすごい喜んでくれるんですね。
そしたらまた違う農家さんを呼んできてくれて、、、
と連鎖的に広がりいろんなイベントをやってきました。
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